邪馬台国がどこにあったのかは未だ解決を見ない歴史上の大きな謎。たびたび新説や珍説が発表されメディアを賑わわせます。つい先日もYahoo!ニュースで新しい解釈が取り上げられていました。
さて、候補地として代表的なのは九州と畿内。私は断然九州説支持です。単純に大陸に近いから。
だいたい邪馬台国については魏志倭人伝に書かれているだけで、その僅かな手がかりをもとに皆ああだこうだと言っているけど、それってどうなんだか。例えば、「投馬国まで南に水行二十日」「邪馬台国まで南に水行十日、陸行一月」という記述から、やれ方角が間違っているだの、距離の尺度が違うだのと。でも、そんな大雑把な方角や数字を確定事項として扱うことに無理があるだろうと。
そこで私の説は「魏の使節団が旅費や報酬を釣り上げるために旅の工程を盛った」です。対海国(対島)、一大国(壱岐)、末廬国(松浦)、伊都国(糸島)ってところまでは足跡が辿れるのに、その先が曖昧になっているのは、玄界灘に面した沿岸の様子は当時の大陸にも伝わっていて誤魔化せないけど、内陸に至れば誰ももう確かめられないから10倍ぐらい盛って報告したと。
というわけで邪馬台国は九州の北部のどこかだったと思います。ただし、記録が当てにならない以上、よほどの物証が発見されない限り、それも証明されないだろうと。